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佃煮の由来

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佃煮の由来

蒲焼の由来

蒲焼は、「大言海(だいげんかい)」にカマボコヤキ(蒲鉾焼)の略形だとされています。
串にさしたその形状が蒲の穂に似ており、それを焼くことから「がま焼」(ないしはかま焼)と呼ばれ、これが転じて「かば焼」となったと言われています。
焼いた表面の色が樹木の樺の皮に似ているので樺焼とする説もありますが、前述の説が一般的に受け入れられています。

蒲焼の由来

甘露煮の由来

「甘露煮」の語源である「甘露」とは中国古来の伝説で、天から降る甘い不老不死の霊薬のことです。
またそれに似た話で、インドにも飢えを満たし、渇きを癒し、長寿をもたらし、死者をも蘇らせる甘い蜜のような霊薬の伝説があります。
このインドの霊薬伝説が仏教を通じ、中国の「甘露霊薬伝説」と融合して日本に伝わりました。
これらのことから甘露ということばが、生命力を与え、寿命が延びるようなおいしい飲食物を意味するようになりました。
味醂や水飴により、つややかに煮上がったさまが、いかにもおいしそうに見えることから、「甘露で煮たようなもの」という一種の美称として「甘露煮」という言葉が生まれたといわれています。

甘露煮の由来

しぐれ煮の由来

関東の佃煮と並んで関西にはしぐれ煮があります。
しぐれ煮と言えば「桑名の殿様、時雨で茶々漬」という文句があるくらい桑名のしぐれハマグリが名高いでしょう。
しぐれ煮は新鮮な貝類に生姜を加えて生引たまり一色で煮あげた特殊な製品。
その起源も佃煮とほぼ同様で戦国時代の終わり頃、尾張の国から伊勢の桑名城外に移り住んできた水谷九郎兵衛が起源とされております。
関ヶ原の合戦で徳川方が勝利を得、家康公が大垣城に凱旋した際に、一番に献上されたのがこのハマグリのしぐれ煮で、その後初冬ごとに鈴鹿峠を越えて京都にのぼり、伝送屋敷を経てハマグリを献上するのが、ならわしとなりました。
ハマグリの旬は初冬で、毎年旬のおいしい時期に献上されたので、「神無月、降るみ降らぬみ、定めなき、しぐれぞ冬の、初めなりけり」の古歌にちなんで、「しぐれ煮」と名付けるようになったと伝えられています。

しぐれ煮の由来

佃煮の由来

佃煮発祥の地は、なんと東京!

歴史をさかのぼること400余年。
江戸の佃島(現在の東京都中央区)の漁民が、江戸前で捕った小魚や貝類を甘辛く煮て食べていました。
当時、冷蔵庫なんてものはもちろんありません。
佃島漁民が、売り物にならない小魚等を保存もできる形で美味しく調理したのが「佃煮」という名前の由来。不漁の際の備蓄食品でもあったといいます。
これが、安価で日持ちもすると江戸中で評判を呼び、やがて全国に広まったのです。

佃煮の由来

徳川家康の特別待遇を受けた佃の人々

佃島の漁民の故郷は、実は関西の佃村(現在の大阪府西淀川区佃)。
かの徳川家康が江戸に入来の際、摂津の佃村に住んでいた漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えました。
なぜ佃村の漁民か?なぜ特別待遇か?そこには大きな理由があります。
家康公が生涯忘れることのできない苦難に遭遇した際、こぞって公を助けたのが佃の漁民だったのです。

「本能寺の変」が「佃煮」を生んだ!?

1582年6月2日早朝。明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺で倒れた時、家康の一行はわずかな手勢とともに堺にいました。
見つかれば、信長の盟友である家康も当然標的です。
なんとしても岡崎城へもどらねば……家康一行は決死の覚悟で脱出奇策をとりました。
ところが神崎川(現在の大阪市住吉区)で足留めを食らいます。川を渡る舟が無かったからです。
ここに救世主のごとく現われたのが、近くの佃村の庄屋・森孫右衛門を筆頭とする漁民たち。
手持ちの漁船と、不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食として用意したのです。
気候の悪い時期に人里離れた山道や海路を必死に駆け抜けねばならない一行にとって、この小魚煮がどれだけ身を助けてくれたか、ありがたいものだったかは、言うまでもありません。
以来、佃村の人々に対する家康の信任は、特別なものになりました。
後の大阪の陣に備えて、佃村の漁民に大名屋敷の台所へ出入りできる特権を与え、大阪方の動向を探る隠密の役割をつとめさせたという言い伝えもあります。

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